サイトアイコン これでいいのだ日記part2

両親、義父母を見送るまで20数年、燃え尽き症候群になったような

雅子さまをイギリス訪問で燃え尽き症候群ではないか?と書いたのですが、私も燃え尽き症候群じゃないだろうかと考える日があります。

自分の両親2人の最期を看取り(臨終まで見守った)義父と叔母の最期を看取った。義母の最期は早朝だったこともあり、臨終に立ち会う事は出来ませんでしたが、下の孫を連れて施設まで行った。

ポックリ亡くなった人がいない。両親と義父母、叔母の5人は長寿で、施設入所4人。比較的短かったのが末期癌だった義父で亡くなるまでの半年は毎日、1、2回は病院に通っていた。

手が掛からなかったのは、従妹がメインでやってくれた叔母だけで、その後の葬儀は弟が通夜まで不在で私と従妹が準備し、葬儀を終えた。

義母は施設に入所するまでは、医者通いの付き添いや病院に入院の手続きと通い等々、意外と動いてきた。

父親は泌尿器、内科に連れて行ったり、病院に入院後は病院に泊まりで付き添いをしたり、結構動いた。この時に過労からメニエール病になってしまいました。父親は施設に入所したものの、1ヵ月くらいで病院に入院し亡くなる2日前から泊まりで付き添いました。

母親は父が亡くなってから手が掛かるようになり、内科、歯科医などの通院の他に施設に入所など、弟の貯金使い込みも含めていろーんな意味で振り回された。

私も酷い耳鳴りがして自分の方が具合悪いのに義母の入院手続きなどした事もあったし、動悸が酷くなり循環器、内科に掛かり、結局「過労」と言われた事も数回ありました。4人が全部私の肩に掛かってきた、特に義父が亡くなり私が60代に入った時期は3人の高齢者が負担になりました。

親達が高齢になり病気になったり、認知症になったり、通院から入院、施設に入所・・・なんだかんだと5人を見送るまで20数年掛かりました。

義母が亡くなってからの様々な手続きも、実家の負動産を旦那への名義変更で終わったのが7月半ば過ぎでした。



13日から16日まで仏膳を供えました。作ったのは味噌汁、煮物、漬物くらい、他はスーパーの総菜を使いました。

段々、何もしたくないような状態になり旦那に「両親、義父母の4人の世話や看取り、葬儀を終えて動く気力が無くなってきた。友達には長い間よくやったと言われる」と、何気なく言うと、「そんな事を言うのはお前くらいだ」と言われました。

そんな事を言うのはお前くらいだと言われるのは当然です。

義弟の奥さんも自分の両親だけ看ました。それに私より10才も若いし、見送ったのは50代になったかどうかの若い時です。亡くなった義姉も同じ。舅姑の面倒は見ない、義父母も喧嘩するまでは私が何かと動いていた。

友達数人見ても、まず舅姑、自分の親2人の4人を看取った人などいません。

父親が脳溢血でポックリ逝ったとか、両親は兄夫婦にお任せ、舅姑も兄夫婦にお任せ、世話をしたのは母親だけ、殆ど2人くらいなものでした。

自宅での介護はしませんでしたが、20数年間に渡って4人+叔母の事で動き回ってきた。若かった私も70才になってしまい、次は自分の番だろうな、もう動かなくても良くなる、あ~~ホッとする。

旦那の身内、私の身内の弟からは「ご苦労様でした」の言葉が全くありません。せめて旦那からでも「長い間ご苦労だった」との一言でもあれば良いのですが「そんな事を言うのはお前くらいだ」ですから。やって当然のような言い方にカチッと来てます。

身内からは感謝、労わりの言葉は無いけど、友人達からは「よくやった」と何度も言われます。これだけが救い。

気力が無くなったのは、主に「動」が面倒になり、最低限の買い物、食事の支度、通院、リハビリ、教会へ行く事。リハビリと教会へ行く事を除いたら、半引き籠りになっていたかも。

家でパソコン、テレビを観る、たまーにピアノを弾くなどの「静」は自宅内で済むので気力が無い状態までは陥っていません。パソコンも眼鏡を変えて馴染んだのでブログを書く事も以前より楽になりました。とはいえ、ネットサーフィンもあまりやらなくなりました。もう既に余生のような心理状態で、これは良くないなぁと思うのでもう少し動くようにしたいと思うこの頃です。



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