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天皇陛下の制服拒絶反応(アレルギー)自衛隊と距離を置く理由とは*昭和天皇の侍従の日記から読み取る生前退位

最初にネットにアップされている記事をコピペするだけなら
誤字脱字は無いでしょうが、読んで掻い摘んでの紹介記事なので、
誤字脱字が多々あると思います。その辺りは適宜読み取ってください。
完璧には書けませんのでよろしくお願いします。

「細く長く生きても仕方がない。戦争責任のことをいわれる」
 昭和天皇85歳、ご心情 故小林忍侍従の日記に記述

昭和天皇が85歳だった昭和62年4月に「仕事を楽にして細く長く生きても
仕方がない。辛(つら)いことをみたりきいたりすることが多くなるばかり。
兄弟など近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる」と漏らしていた
ことが22日、元侍従の小林忍氏が残した日記の記述で分かった。

先の大戦を経験した昭和天皇が晩年まで戦争責任について気にかけていた
心情が改めて浮き彫りになり、重要史料といえる。
62年4月7日の欄に「昨夕のこと」と記され、
昭和天皇がこの前日に住まいの皇居・吹上御所で、当直だった小林氏に
直接語った場面とみられる。
当時、宮内庁は昭和天皇の負担軽減策を検討していた。

小林氏は昭和天皇の侍従になった49年4月から平成12年6月まで日記
をつづった。共同通信が遺族から日記を預かり、昭和史に詳しい作家の
半藤一利氏とノンフィクション作家の保阪正康氏とともに分析した。
(日記の引用部分の表記は基本的に原文のまま)産経新聞

ここから以下、週刊新潮の記事を抜粋。とはいえ
元々の記事も長かった為、長文になりました。
今回は感想なし、ただの紹介です。

8月23日昭和天皇の人間らしさが垣間見えるエピソードがt各誌に掲載された。
日記を記した故・小林忍紙は 74年4月から昭和天皇の侍従となった。
日記は香淳皇后が崩御される2000年6月までの26年間に亘る。
日記は共同通信が小林氏の遺族から入手しその一部を報道各社に公開した。

中略

小林さんというのは侍従の中でも天皇のすぐそばにいた方ではありません。
そのため他の侍従等が書いたものと比べると非常に客観的な日記だと思います。
(作家の半藤一利氏)

日記の内容を少し紹介

75年11月24日。
訪米後の会見に対する世評を気になさり自信を失っておられる昭和天皇。
小林侍従の励ましに「涙を流しになってお聞きになっていた」

80年5月27日。

中国の首相との面会にあたり「陛下は日中戦争は遺憾であった旨おっしゃりたいが、
長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいと
いうのでは余りになさけない」

87年7月19日。
「ふらふらなさり始めたので、左右から支えたところその場におくずれになった」

そういった記述は「人間・昭和天皇」を同情を持ってしっかり表していました。
ただ、昭和史を書き換える、大騒ぎをするような発見ではありません(半藤一利氏)

昭和天皇がいつ誰から戦争責任を指摘されたのか、日記はそこに触れずじまいである。

中略

昭和天皇は敗戦の責任を感じ、三度、退位を考えていたことが様々な
資料で明らかになっている。
簡単に
1度目=終戦の直後。
2度目=東京裁判の判決の日。
3度目サンフランシスコ講和会議の時。

宮内庁関係者による話、
小林さんはとても真面目な方で昭和天皇の信頼を得ていました。
だからこそ戦争責任のようなデリケートな問題についてもお話に
なったのでしょうね。

余談ですが平成元年から平成3年まで今上天皇の侍従も勤めたものの
今上天皇との折り合いは良くなかったと言われています。

小林さんへ勲章を授与するとなった時に
”今上天皇からの勲章であればもらいたくない”と辞退したという話もあります。



昭和天皇の戦争責任を巡る苦悩や平和への思いは今上天皇に伝わっていたと思われる。
皇太子時代週に一度は昭和天皇のもとへご御参内され、ともに食事などして
コミニケーションを取られていた。時には現皇太子が同行することもあった。
昭和天皇は今上天皇のことを「東宮ちゃん」と呼んでいた。

昭和天皇は今上天皇に対し
大元師であり国権の総攬(そうらん・一手に把握して治める)だった
自分とは異なる天皇像を作り上げてくれる、と期待していたと思う。

今上陛下は93年に歴代天皇として初めて沖縄をご訪問。
終戦60年の節目となった2005年にはサイパンを、2015年にはファラオや
ペリリュー島をご訪問、など慰霊の旅を続けてこられた。
それと今回の日記は無縁ではなかろう。

自衛隊との距離

他方近年まで天皇陛下から遠ざけられてきた組織がある。
自衛隊だ。

さる防衛省関係者は事実だとしこんな例を挙げる。

2008年 5月の海上保安制度創設60周年を祝う記念式典には天皇皇后両陛下が
ご臨席されこれまでに殉職した保安官と遺族に 弔意を表された。

しかし一方で2000人近い殉職者を数える自衛隊の公式行事に両陛下の
ご光臨を賜ったことはありません。
昭和天皇に関して言えばご搭乗の自衛隊ヘリは自衛隊飛行場ではなく
隣接する警察施設に着陸していました。

「自衛隊との距離」は今上陛下の、いわば制服アレルギーの証左なのか。

いや、天皇陛下ご自身の意向ではなく、 宮内庁や警察庁の官僚、
自民党の左派政治家たちによる忖度の結果だと思う。
自衛隊をできるだけ権力に近づけさせまいとする力が長らく「慣行」として
働いてきたのでしょう。これは自衛隊への警戒感の表れであるとともに
ハレーション(強い影響を及ぼすこと、主に悪い影響についていう)が
起こることを避けようという意図もあるはずです。(防衛省関係者)

熊本県被災地訪問には自衛隊のヘリを使用した天皇皇后両陛下。

天皇皇后両陛下、その他に安倍総理など政府要人の輸送に使用される
政府専用機は防衛省航空自衛隊が管理および運用を行なっている。
パラオなどは滑走路が短くてANNの飛行機を使用、訪問先によって
飛行機も変わるようでした。

20年ほど前の制服絡みのエピソード 
簡単に
両陛下が「制服を見たくありません」と内々におっしゃいまして。
地方に行幸される際、交通整理などをする制服警察官の存在が
国民との距離を遠ざけているのではないか、とのお考えでした。
ある時は、信号を全部青に操作してしまうのはよろしくないとも
おっしゃり、その通りにしたら赤信号で近づいてくる人がいた。
警備としては困難だと理解いただき信号の件は元通りになった。

昭和天皇は辞める選択肢がなかったため、天皇であり続けた。
将来の天皇がもし退位したいと思われたとき、その前例があれば、
同じようにしてください、とおしゃる可能性も出てきた。
安定的な皇位の継承のために、どうしていくべきなのか。
改めて課題が浮き彫りになりました。(八木秀次教授)

昭和天皇は戦後何度も退位を仄めかされていた。
老境に入られても公務が満足にできないくらいなら長くその地位に
留まっている意味がないと今回の日記で吐露されている。
それは今上陛下が生前退位を選択された理由にも繋がっているのでしょう。

戦争責任への苦悩とともに、そのテーマもまた父子の間で引き継がれて
いるのだと強く思いました。(先の宮内庁関係者)




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