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1970年代 過激派逃亡50年の人 いちご白書をもう一度の時代

昨日今日と、いつもは雪が降らない地域に雪が降り大変な思いをされた方々も多かったようでご苦労さまでした。当地は毎回書いてしまうのですが、暖冬で積雪ゼロ。除雪車が家の前を通ったのは2回くらいでしょうか。

昨日は心療内科に行ってきました。私の保険証も等々負担2割に代わりました。初診料と薬代も若干安くなりました。

歯が折れなければ1月は眼科に行く予定でした。白内障手術をしてから問題続きの左目の視力が悪くなり右目で補っているのがよく分かるようになりました。教会の方も白内障手術をして3年くらいで片目が悪くなりレーザー手術をしたら良くなったと言っていたので、私もその部類かな~?

2月は祭日が2日あるし、市立病院での抜歯もあるので3月に入って落ち着いたら次は眼科に行かないと。

そういえば、新年一般参賀は中止でしたが、天皇誕生日の一般参賀は実施になりました。こちらは天皇皇后夫妻と愛子さま、と秋篠宮ご夫妻と佳子さまが出席。今年はマスク無しでバルコニーに立って欲しいです。

2023年の天皇誕生日 見目麗しい左側の三人と右側 だんご3親子

心療内科では毎回3分診療のような状態でしたが、今回は体調がいまいち悪い事も言いましたが、年齢的な変わり目、休みたい時期でしょう、のような事を言われいつもと同じ処方箋と次回予約をして、やっぱり3分で終わりでした。

ブログも書こうかな~と思う時があったんです。

1970年代に発生した連続企業爆破事件で指名手配されていた「桐島聡」を名乗る男性が50年間の逃亡生活の末、末期胃癌で1月29日神奈川県内の病院で死亡した事件。

指名手配の写真は20才の時から変わらず、50年も経てばかなり容貌も変わっただろうし、どんな逃亡生活をしていたのだろうとか。亡くなる前に「後悔している」と言ったとか。

そりゃそうだろう、どの程度事件に関わったのか分かりませんが、死刑になるほど関わっていないような状態なら自首して罪を償った方がよかったのではないだろうか。偽名の内田洋は当時人気のあった「内山田洋とクールファイブ」からヒントを得て付けたのだろうか?とかいろいろ頭の中をよぎりました。

この人は関わる人、友人が違っていたら全く別の人生を歩んでいただろうとは思うのですが、同情しません。最後に本名を名乗ったのは無縁仏になりたくなかった、ズルいだろうと思いました。どれだけ家族、きょうだいがいればきょうだい、親戚に迷惑を掛けたか、そして犠牲者と家族は何年たっても報われません。

「桐島聡」は私と同い年でしたが、事件の事を詳細に知らないのは仕事をしていたのでワイドショーを見なかったから?ニュースで見て知っている程度なのかな。連続企業爆破事件が起きた1974年~1975年頃の私は恋愛真っ盛りの時期でした。( ゚Д゚)

1972年の浅間山荘事件以降は連合赤軍のリンチ事件が発覚、同志12名の殺害が発覚した事から急激に過激派は嫌われ学生運動も下火になっていった。当時の週刊誌、週刊明星、週刊平凡にもかなり詳細に載っていて凄惨な事件に身震いしたものでした。

※連合赤軍 リンチ事件で検索すると詳細が分かると思います。

そしてユーミン70才が作った「いちご白書をもう一度」の曲を思い出しました。この曲も1975年8月にフォークグループ・バンバンがリリース。大ヒットしたのでした。

いちご白書をもう一度(昭和50年)バンバン

僕は無精ヒゲと髪をのばして学生集会へも時々出かけた
就職が決まって髪を切ってきた時 もう若くないさと君に言い訳したね



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