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当時の天皇皇后両陛下(今の上皇夫妻)31年前の両陛下の訪中に関する外交文書が公開

【記録として】

1989年6月4日 天安門事件
1992年10月23~28日 天皇皇后両陛下 初の訪中
1993年1月19日 皇太子と当時の小和田恒外務事務次官の長女小和田雅子と婚約内定

中国は当時、89年に即位した天皇陛下(今の上皇さま)の訪中を再三求めていた。宮沢内閣は呼応し、国交正常化20周年となる92年に実現へ動くが、その最中に中国が尖閣諸島を明記した領海法を制定。自民党で反発が強まり、天皇訪中へは曲折を経た。その生々しい経緯が、公開されたファイルにつづられている。

天安門事件とは、1989年6月4日に中国の北京市にある天安門広場で発生した事件です。民主化を求めて集結していた学生や市民に対して、中国の軍隊である人民解放軍が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出したとされています。生成 AI

23日公開された外交文書には、1989年6月4日の天安門事件を受け、6日から3日間で約3500人の在留邦人が緊急帰国した様子を記録した秘密公電も含まれていた。北京の日本大使館が、事件翌日からの5日間でバスを105回運行させ、留学生を含む約1500人の邦人をホテルや空港に避難させていた。車体に日の丸を付けたバスもあったという。日航や全日空の臨時便も3日間で計10便が運航した。
6月13日の公電によると、大使館員が現金やクレジットカードを持たずに避難した邦人のため、借用証を書けば航空券を入手できるよう航空会社と交渉。学校や職場に旅券を置いたままの約50人には
渡航書を発給し、帰国させた。〔共同〕
記事出典 https://www.nikkei.com/article/DGXZQODE22ADP0S0A221C2000000/

31年前の天皇陛下初訪中をめぐる“知られざる真実”明らかに
【スーパーJチャンネル】(2023年12月20日)

両陛下の初訪中巡る政府内議論明らかに 外交文書が公開 (2023年12月20日)

宮沢元総理は「ぐらぐらしている」 1992年の両陛下の訪中に関する外交文書が公開|TBS NEWS DIG

1992年10月の天皇陛下(現上皇さま)の中国訪問に向けた検討過程で、自民党や国内世論の反発を懸念した宮沢喜一首相が最終決断をためらっていた様子が、20日公開の外交文書で明らかになった。外務省は早期の訪中決断を迫ったが、宮沢氏はすんなりとは応じなかった。(肩書は当時)
日本政府は92年の日中国交正常化20周年に合わせ、中国政府と天皇訪中を巡る交渉を重ねた。同年1月の日中外相会談では、渡辺美智雄副総理兼外相が「10月22~27日の日程」で調整する意向を伝達。当時、この日程は非公表扱いで、中国側の訪中要請に日本側が「真剣に検討する」と応じたと、対外的には発表された。
しかし、自民党などで「天皇を政治に巻き込むべきではない」との慎重論が拡大した。中国政府が2月に沖縄県・尖閣諸島を自国領とした領海法を制定したほか、楊振亜駐日中国大使も天皇訪中時の謝罪に期待を示したためだ。
「首相がぐらぐらし始めているらしい」。この時期、外務省幹部が懸念を示すと、渡辺氏は「困ったものだ。宮沢氏はいざとなると度胸がない」と嘆いた。
宮沢氏は4月1日、外務省幹部に「党内や国民に亀裂が生じるような形で実施したくない」と明言。早期の政治決断を促されても「1月の外相訪中の時、(天皇)訪中に反対しなかったが、十分相談を受けたとは思っていない。自分としてそのとき決断したわけではない」と慎重姿勢を崩さなかった。同13日には「党内が収まらなければ自分が責任を取る」と語った。
準備を急ぎたい小和田恒外務事務次官は5月、宮沢氏に「遅くとも6月末までに(政府方針を)決断する必要がある」と直接訴えた。これに対し、宮沢氏は「自分もそう思う」と応じていた。
しかし、6月に宮沢氏は一転して「自分が決めるのは8月に入るのではないか。急ぐと返って(党内が)反対となる恐れがある」と判断を先送りする考えを示した。さらに「腹を決めないのはだらしがないと言う人がいるが、本件はそういう性格の問題ではない」と主張した。
外交文書には、たびたび一時帰国した橋本恕駐中国大使や外務省幹部が、自民党幹部や首相経験者らの根回しに奔走した様子も詳細に記録されていた。最終的に、宮沢内閣は8月に天皇訪中を決定。10月に実現した。



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