医師として「生涯現役」を貫き、講演、執筆など多分野で活躍し
18日に105歳で亡くなった日野原重明さんの葬儀が29日午後1時、
青山葬儀所(東京都港区)で始まった。

秋篠宮、三笠宮、高円宮、各宮家から供花 文化勲章が祭壇に飾られています。

正午すぎには、親交の深かった皇后さまが弔問に訪れた。
祭壇前で拝礼をするなど最後のお別れをし、遺族らに声を掛けていた。
会場を後にする際にも、長男で喪主の明夫さん(71)と長く言葉を交わしていた。
祭壇は白いバラやピンクのカーネーションなどで飾られ
101歳の時に聖路加国際病院のチャペルで撮影された、白衣姿の笑顔の遺影が飾られた。
朝日新聞より抜粋

日野原重明氏 簡単にwikiより

*保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。
*名誉院長であった聖路加国際病院は聖公会系だが、自身は日本基督教団所属
*趣味の一つにピアノがある。
*よど号ハイジャック事件に遭遇し、人質となった。
韓国の金浦空港で下ろされ解放された。

皇后と親交が深かったこと、聖路加国際病院院長の肩書きで
一見、カトリック信者のような錯覚を起こしそうですが
プロテスタント日本基督教団の信者。
従って葬儀も葬儀ミサとは呼ばれず、葬儀か葬儀礼拝。

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*美智子さまと日野原先生の交流 女性セブンより

美智子さまの名前が皇太子妃候補として浮上した1958年頃
母の正田富美子さんが日野原さの元を診察に訪れたのがきっかけ。

民間から皇室に嫁ぐという前代未聞の事態に
プレッシャーから体調を崩されて「美智子に皇太子妃がつとまるでしょうか」
と日野原さんに不安を吐露することも。

宮内庁に提出する美智子さまの健康診断を作成したのも日野原先生。

「少しだけ肥満傾向にあったので、運動するとよろしいでしょうと
おすすめした」というのが日野原さんのいつもの語り草だった。

その後、「正田家のホームドクター」として深くお付き合いをする。

美智子さまの母 富美子さん、父 英三郎さんの最期にも立ち会われた。

美智子さまが海外のホスピスを訪問される際、
患者さんにどう言葉をおかけすればいいでしょうと質問され、
「床にひざまずいて目線を同じくするといい」とアドバイスされた。

母、富美子さんが膵臓癌で闘病中、単なる延命治療はやめてほしいと
美智子さまの要望もあり、富美子さんはホスピスケアを病棟で
行った最初の例といえる、音楽療法として天皇ご一家の
カルテット演奏を録音したテープを繰り返し聴かれていた。

*地下鉄サリン事件での日野原院長の対応

1955年3月20日。午前8時40分以降、続々と患者が運ばれてきた。
「息が苦しい、目が痛い」と訴える人もいれば、心肺停止の人もいた。
緊急招集された石松さんらは、なぜ患者が苦しんでいるのか原因がわからず
症状別に患者を振り分けた。最初は農薬中毒かと考え、その治療薬を使ったが
効果がみられなかった。

「全ての患者を受け入れる」との方針で、日野原さんは「外来診療中止」と
「麻酔のかかった手術患者を除く予定手術一切の中止」の指示を出した。
当時83歳の日野原さんは、患者の車いすを押す手伝いもしていた。
「全職員が『やるしかない』と腹をくくった。中途半端な指示だったら迷いも出て
受け入れを制限していたかもしれない」と石松さん。
原因物質がサリンとわかり、解毒剤を使うと、他の薬で止まらなかった患者の
けいれんがおさまったという。約2時間で640人が運び込まれ、1人が亡くなった。

患者の多くは、北欧の病院を参考に災害に備えて設計され、1992年にできた新病棟に運ばれた。
新病棟は日野原さんの発案で、待合室や廊下でも酸素吸入や吸引ができる設計に。
病院中に約2千本の配管が備えられていた。
石松さんは「職員たちは、これだけの病院なのだから
何かあったら自分たちがやらなくてはという意識を持っていた」と語る。
事件の日、マットレスを敷いた廊下やチャペルも応急処置の場となった。朝日新聞より

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